平松守彦さんが死去!一村一品を提唱したことでも有名な平松さんの死因は?経歴・出身・家族が気になる!
「一村一品」を提唱したことでも知られる、前・大分県知事の平松守彦さんが死去したことがニュースとなりました。
死因はなんだったのでしょうか?
また、平松守彦さんが残した功績や経歴・家族なども調べてみました!
平松守彦さんのプロフィール
誕生日:1924年3月12日(没92歳)
出身地:大分県
東京大学法学部を卒業後、旧商工省(現・経済産業省)に努めることになった平松守彦さん。
その後、当時馴染みのなかった「コンピューター」に目をつけ、コンピューター産業に力を入れることとなりました。
日本電子計算機の株式会社設立にも携わっていたのだとか。
平松守彦さんは、その後もソフトウェア開発などにも貢献し、日本がコンピューター産業で生き残るための道を開いたとされていて、実行力が伴った素晴らしい方だと評価されています。
一村一品を提唱。その活動内容とは?
1979年に大分県知事に就任するとともに、「一村一品運動」を提唱した平松守彦さん。
平松守彦さんが提唱した一村一品運動とはこのように記載されていました。
「ローカルにしてグローバル」という標語のもと、全国・世界に通じる物を作る、という目標を掲げ、自主的な取り組みを尊重し、行政は技術支援やマーケティング等の側面支援に徹することにより、自主的に特産品を育てることができる人や地域を育てる「人づくり」「地域づくり」を行おうとした。また、付加価値の高い特産品を生産することによって、農林水産業の収益構造の改善を目指した。
一村一品運動は、大分県内に、シイタケ、カボス、ハウスミカン、豊後牛、関あじ、関さば、大分麦焼酎など、日本全国に通用するブランドを生み出した。現在では、特産品の品目は336にのぼり(うち、年間販売額が1億円以上の産品131品目)で、生産額は総額で1,400億円に達している。
この運動は、日本国内の他の地域や、国際協力機構の青年海外協力隊を通じて、タイ王国・ベトナム・カンボジア等の海外にも広がりを見せている。日本国政府も途上国協力の方策として、途上国における一村一品運動を支援している。
ウィキペディアより
当時は印象の薄かった大分県が、この一村一品運動によって全国的に知名度を上げることに成功したといいます。
この功績が称えられ、1995年にはアジアのノーベル賞と言われているマグサイサイ賞を受賞しています。
平松守彦さんの死因は?家族はいるの?
残念ながら、大分県内の病院で死去したと報じられた平松守彦さん。
しかし、どこにも死因についての記載はありませんでした。
気療養中だったという噂もありますが…。
「葬儀は近親者のみで行う」とされているだけで、詳しい家族構成も分かりませんでした。
数々の功績を残された平松守彦さん。
ご冥福をお祈りいたします。